224.7キロを突っ走れ!「ぶらり長元記取材旅(笑)南予編」

二日目〜
「似て非なるもの」
前夜、ホテルで愛媛の郷土料理「さつま汁定食」なるものを食す。愛媛なのに薩摩??
…私の認識での「さつま汁」とは「甘藷と豚肉又は鶏肉の入った汁」の事だ。
「是非も無し」とそれを頼む…んで出された物は…
まあ、何つか軽いカルチャーショックやね。道理で店員さんが「食べ方」を教授していった訳だ(さぞ怪訝な顔してたろうな?私w)

南レク城辺公園「紫電改展示館」

で、一旦宇和島から南へ、昨晩来た道を戻る。
左 (モンタージュ写真)回転昇降式展望タワー ¥410払えば170m上空からの光景が観られる。
右上 ゴンドラ内部風景 高所恐怖症の人にはお奨めできない。因みに、この時の乗客は私とのると君だけだった(時間的に早すぎたのか、旗日の土曜だってのに人いねぇ…)
右中 上空から見た紫電改展示館 なんと無料で観られる(愛媛の人偉い!)
右下 紫電改後姿 遺族の方達の要望で「墜落時のままで保存」と言うことらしいのだが、方向舵・昇降舵等の羽布張りの部分はともかく、やはりペラぐらいは真っ直ぐに修復して欲しいと思うのは私だけではないと思う・・・

常盤城

西園寺配下の武将(恐らく国人領主級)御荘(勧修寺)氏の居城。予土の国境いに位置するので、「境目の城」かと思ったが、これぐらい小規模ならそれは無いと思う。
史実では元親の南予攻略に先立ち、旗下の武将、宿毛(野田)甚左衛門・十市(細川)宗桃らの軍勢によって攻略され、城主「御荘基詮(★3・2・2)」は降伏しています。 
因みにこの城は「長元記」にも出てきており。城Lvは「0」なので妥当な線だと思います。
城址
右上 郭(らしき削平地)社が建ってます。
右下 土塁或いは虎口(らしきもの) 説明版の類は一切無し。

宇和島城

で、またまた城郭探検隊北へ!w
元々は西園寺方の城郭、丸串城と言われた城域に、“あの”築城名人藤堂高虎が築き直した城、最終的に奥州の伊達家の庶流が宇和島に入り、宇和島伊達家となる。
因みに丸串城は「長元記」には出てきません。
左 天守
右上 本郭から見る宇和島市
右下 同じく宇和島港方面 この辺りにあのロス級原潜「グリーンビル」に衝突され沈没した「えひめ丸」の悲劇的な事件で有名な「宇和島水産高等学校」があります。

河後森(かごもり)城

西園寺配下で最大の所領(河原淵1万6千石)を持つ渡辺氏の居城。「長元記」の扱う時期には長宗我部氏に降っていたらしい。
因みに、この辺一帯の城は、土居氏の「大森城」もひっくるめて、「岡本城」城Lv「2」にしてあります。
左上 城址碑(デカい)裏に城の来歴が書いてある。
左下 本丸付近の萌える石垣
右上 連郭方式の萌える縄張
右下 超萌える堀切(はあと)
つか、ここは登城口が多杉!スゲー迷う。この日も勘違いで別の登城口に進んでしまい、良く整備された遺構部の場所に行けなかったわ、駐車場の在る登城口まで延々と山の周りを歩き周るわで、エライ目に……
もう一度チャレンジしたい城だが…もうねぇだろうな(やはり愛媛は遠すぎ)

黒瀬城

伊予西園寺氏の本城 西園寺公広の代に、長宗我部氏を降した後、この地に入ってきた秀吉配下の武将戸田勝隆によって公広は切腹させられ、西園寺氏は滅亡。
城Lvは「1」だけど過大かな?
実は、よる歳波には勝てず、下の図の矢印辺り(推定)でグロッキーして動けなくなってしまい、ここから先はのると君が写真に収めたはず(面目ない)上の画像は城下の眺め。
途中までは造成途中の削りたてホヤホヤの道が出来ていたけど、途中からは荒れ放題で閉口した。
まあ、あの状況だったら再整備も近いとは思うが、ちょいと地元の西園寺氏に対する扱いが冷淡すぎはしないか?調べてみると、西園寺氏は結構興味深い勢力なんだが・・・

伊予大洲

伊予、大洲宇都宮氏の居城。秀吉の時代に近世城郭になる。
「長元記」にも当初は大洲宇都宮氏のユニットが入っていたけど、諸般の事情で削除。ここも便宜上、河野氏の持ち城に落とさざるを得なかったです。城Lvは「1」
左上 下から仰ぎ見る復興天守 見ての通り夕暮れです。17:00過ぎてますw。
左下 城下を流れる天然の堀、肱(ひじ)川
天守付近の門の石垣

と言うわけでこの日は終了。麓の酒屋で酒買おうとしたら(またかよw)、目当ての銘柄が一本しかないとの事、で、大洲駅の近くの何とか言うショッピングモールに支店を出しているとの事なので、そこで酒と名物じゃこ天を買った後に一路「徳島」へ(ぇ?
224.7キロを突っ走れ!松山・徳島道Go!Go!Go!(返す返すもご苦労様>のると君)