伊予西園寺家

 この文章は、「冬コミ」発表予定の「長元記」の解説書巻末、デザイナーズノート用に書いた西園寺家についての雑文であります。
だが、書いてるうちに長文になりすぎて、掲載スペースに収まりきれなくなると言う事態になってしまいました(笑)。
せっかく書いたものだし、死蔵させるのも勿体無いから、ここに掲載しときます。興味のある方だけどうぞ。
そのうち興味が沸いたら、河野家や十河家についての文章も書いてみようかな?w

伊予西園寺家

伝、西園寺公広公坐像

 公家の西園寺家が、嘉禎二年(1202)に鎌倉幕府に強請して宇和荘を獲得。その後、南北朝時代の永和二年(1367)に一族の公良が同地に入り土着したのが伊予西園寺家の興りである。
 この「名家」の西園寺氏を旗頭に、周囲の豪族・国人領主が結集。一大勢力を築き上げ戦国期の宇和郡を支配していた。しかし、西園寺家と麾下の豪族・国人の間に、直接の被官関係という物はあまり存在せず、主従の関係は相当希薄なものであったようだ。その証拠に、西園寺家が発給した所領安堵状等の類は殆ど稀と言う事らしい。

 要するに、勢力としての伊予西園寺家は、戦国期の大名家等と言う代物ではなく、西園寺家を筆頭とした、相互を監視、また扶助を目的とする“宇和郡、豪族・国人連合”と言うべきものであろう。
 旗頭たる西園寺家の石高は二万石余。その他、「西園寺十五将」と呼ばれる麾下の豪族達がそれぞれ三千〜一万六千石を所領。合計十万石余の勢力であった。

 ゲームで扱う時代の西園寺家は、伊予来住寺の僧侶から還俗し家督を継いだ、西園寺公広(きんひろ)が当主となっていたが、北は宇都宮家、南は一条家、そして海を渡った西からは大友家と、周囲からの侵攻に絶えず悩まされる。
 永禄十一年(1568)、毛利及び河野氏連合軍に与し、一条・宇都宮連合軍を鳥坂峠の合戦で撃破。一時的に息をつくのも束の間、元亀三年(1572)今度は大友家が大挙襲来、抗し切れず降伏。大友家に服属する憂き目に陥ってしまう。
 その後、麾下の豪族達が一条兼定の領土回復戦争に協力するものの兼定は敗北。以後、長宗我部家と敵対して行く。
 対長宗我部戦では伊予方面の軍代、久武親信を配下の武将、土居清良が討ち取る等、長宗我部軍を苦しめる局面も見られたが、ついに力尽き。天正十二年(1584年)本城たる黒瀬城が陥落。当主西園寺公広は長宗我部家に降伏してしまう。
 さらに翌年、四国平定のため宇和郡に侵攻してきた小早川勢に対し戦わず城を明け渡し、又しても降伏してしまう。三度目の降伏である。

 その後西園寺家は、秀吉の九州攻めにも協力した模様だが報われず改易の憂き目を見る。当主公広は宇和九島の顧成寺に蟄居し念仏三昧の日々を送るが、天正十五年(1587年)旧勢力の権威とその反抗を恐れる宇和郡の新領主戸田勝隆が公広を謀殺してしまう。
―――ここに300年続いた伊予西園寺家は完全に滅びたのであった。