四国征討その1

 ご存知の通り9/10〜9/12まで四国城攻めに逝ってまいりました。

 んで初日、ちょっとヤバげな天気。とりあえず東名阪国道からの近接。伊賀の山中にて雨が強くなるも、大阪に入ったら持ち直し、明石海峡大橋(1)近傍のSAにて明石のたこ焼をば食うw


写真左上から順番に番号振ってあります(みえるかな?)

 そして四国上陸、第一目標徳島阿波岡崎城へ。はっきり判る遺構は、山上の神社社殿裏の石垣位(2)しか無く全くの期待はずれ、はじめてのおつかい四国編はのっけから波乱含みの展開だw
 以下何時ものとこからのコピペ

阿波岡崎城
岡崎城の築城年代は定かではないが、天正以前には、小笠原将監が居城していた。 その後、四宮氏が城主となっていた。
 戦国時代、阿波を手中にした長宗我部元親は、真下飛弾守を城代としている。
 天正13年、阿波徳島に入った蜂須賀家政は、阿波9城の一つとして益田忠正を城代とした。 益田氏は3代に渡り居城したが、一国一城令により寛永15年に廃城となった。

 お次は勝瑞(しょうずい)城。字が似てるので、つい(尾張の)勝幡(しょばた)城と読んでしまってしょうがないw
 ここはまあ、良く在りがちな城跡の墓地付お寺さんだった。遺構としては水堀と僅かに残った土塁(3)位か(私は郭跡はあまり遺構と見なさない主義なので)先ずは悪くは無い。

勝瑞城
延元2年、細川頼春が築城して以来、阿波守護所として阿波の中心であった。 応仁の乱で衰退した守護細川氏に替わり三好氏が台頭する。 天文21年に三好義賢は、細川持隆を攻めて城を奪った。 
 三好氏も3代経て、天正10年、三好氏の名跡を継いだ十河存保は、土佐の長宗我部元親に攻められ、中富川の合戦に敗れ讃岐へと逃れ、三好氏の阿波の支配は終わった。

 
んで香川侵入、讃岐引田城へ。今回行った唯一の本格的(笑)山城跡。
 遺構は、在るといえば在るんだろうけど、余り目に付くものは無かった希ガス。櫓跡の石積み(4)と水の手の石組み位か?案内板には竪堀・堀切など美味しそうな事が書いてあったんだけど・・・
 ここは頂上から見ると海に突き出すような格好の城なので、城から降りたり、尾根道を歩いたりする時は思わず足が竦んでしまったなぁw(マジで足踏み外すと、海に落っこちるような気がしてw)
 あと、一部急峻な部分が整備されて無いので、少々ロッククライミング(と言うほど大げさではないが。這いつくばり加減で)踏破したところも・・・晴れててヨカッタw

引田城
 築城者は不明であるが、室町末期には寒川氏に属する四宮右近が居城。元亀元年(1570)三好氏に攻められ寒川氏は城を引き渡した。
 長宗我部元親の讃岐侵攻に際し、三好氏は羽柴秀吉に援軍を要請。天正十一年(1583)に仙石秀久が入城する。翌年に秀久は長宗我部軍に引田表で敗れるが、秀吉の四国平定後に再び秀久が入城。
 天正十五年(1587)、生駒親正が讃岐一国を得て入城するが、讃岐の東偏ということで聖通寺城に移る。元和元年(1615)の一国一城令で廃城。

 まあ、この日の残りは街中城郭跡を残すのみ、高松自動車道のSAでセルフの讃岐饂飩を喰う、ンマカッタwそして高松城へ。
ここは水城なので、街中にも拘らず磯の香りが漂ってた。そして堀には海水魚が跳ねていた。んまあ、何と言うか・・・本郭跡の石垣と近代建築のビルの妙なマッチング(5)がすんばらしかった(爆)
その後、せっかく高松まで来たので、我らがボードウォークの高松店へ立ち寄ってみたりした。

 で、本日の最後丸亀城へ・・・って、もう五時近いやん!w
 ここの高石垣は大変素晴らしかった。時間が時間なので、天守には入れなかったけど(6)、城下の眺めも素晴らしく、瀬戸大橋を含む瀬戸内が一望できる場所なので景色は抜群であった(まあ、今回行った城の大半は瀬戸内海を視認出来る所だった)

 んで、初日は終了、善通寺っつ〜名前だけは有名だけど何にも無い市で宿泊であるw

ああ引田城攻略で足が痛てぇ・・・orz